これでは人間の裁判官は不要だな

 刑事裁判ではまず事実認定を行い、有罪と認定されれば量刑をして判決を言い渡す。事実認定にはいろいろあろう、現実を認定するからには画一的にはできまい、これは人間の仕事であろう。一方、量刑についてはどうだろうか? よく「過去の判例に沿った」とか「(過去に同じような事件を起こした者との)公平(*1)を期した量刑」などと言われる。私は口悪く「量刑の相場」の沿った判決をしていると言っている。事実認定の後の量刑について、過去の判例の相場に乗っ取った判決で良いのであれば、その部分には裁判官は必要ない。そのようなことなら人間でなく機械でデータベースを検索して同等のものを探した方がよほど「過去に沿い、公平な」判決で出せるに違いない。

 しかし、それを機械にさせず、人間である裁判官にさせるのが日本の制度である。機械でなく敢えて人間に行わせることには、各々の事件と被告人の特性及び社会環境の変化に応じて量刑に変化をつけることを前提としていると言うべきである。

 過去の永山事件において最高裁は死刑の選択基準に、犯行の計画性を必要としたが、これは被告人が犯行時に未成年であったことを考慮して死刑を選択するためにその要件を加重したに過ぎない。この加重された死刑適用の要件が、死刑適用の要件として誤用され続けていること自体が日本の司法は異常な世界である。

 必ずしも計画性のある犯罪だけが社会にとって危険な訳ではない。衝動的に犯罪を犯してしまうことができ、それを反省しない人間のほうが社会にとってより危険ではなかろうか。社会がより危険性を感じる状態になったとき、それに応じて量刑を変化されることが人間である裁判官の使命だろう。過去の判決に沿うだけ判決を作るなら機械にだってできるのだから、今のままでは裁判官は人間である必要はないということになってしまう。

*1:被害の大きさと量刑は全く不公平そのもの。善良な市民1人の命は犯罪者の命より公然と軽んじるのが日本の司法のおける量刑だ